非現実

地下の狭い階段にヒールの音が響いた。
ハイヒールを履いたのは久々なので、若干足が痛む。
私の決死の覚悟は、震える両足が物語っていた。

「あぁ~どうもどうも、お電話いただいた方ですね?」
「は…ぃ」

入って直ぐ、若い人に「例の件」を告げたら別室の事務所っぽい所に通された。
それから間もなく、丸々と肥えた眼鏡の男の人が入りながら言ったのだった。
私は慌てて立ち上がる。

「あ~~いやいや、そのままでどうぞ」
「あっ、はいっ」

さぞ重いのだろう、向かいのソファーにドカッと身体を預けて再び口を開く。
(この人が店長さんなのね……)

「いや~今日も暑いですなぁ~~?」
「は……い?」
「はっはっは、いや緊張しているようなのでねぇ~冗談冗談」
「……ぁ」

私の全身を嘗め回すような眠そうな視線。
気付けば肩に力が入り過ぎている。
フフンと、卑下笑みを浮かべながら眼鏡をかけ直す店長は……。

「えぇっと、新井理紗さんでしたっけ~~?」
「あっ、は、はいっ!!」
「うちにはネットで?」
「はいっ、そうですっ!」
「えぇっとね……お幾つです?」
「に、26歳です」
「という事にして、働いてもらいますかねぇ」
「ぇ?」

眼鏡の奥の眠そうな視線が「まぁいいけどね」と言っているようだった。

「色々な事情を抱えてる人がね、コッソリと高収入を期待して来る訳ですから?。
別に年齢なんかどうでもいいんですよホントにね?。」
「……すいません」
「いやいや、別に構いませんよホントに」
「本当は……30で…す」
「そして~~~実は結婚なさってるでしょ?」
「ぇ?」

確かに電話した時は、26歳OLだと言っていた。
化粧も洋服もバッチリ若作りしたのだが……。

「いやいやいや、25前半に見えますよ?。
これホントね、はっきり言って驚いてるの僕。」
「じゃ…じゃあどうして、ですか?」
「色々な事情を抱えてる人と接してきてるからね、そういうのって解るのよ、僕」

店長の言葉に、妙に納得いってしまった。
嘘の設定や変に若作りまでして……穴があったら入りたい気分だった。

「貴女は十分美しいし、まだ25前でも十分いけるからサ。
だから働いてもらえるなら年齢はそれで行こうよ。」
「……でも、あのぅ……私、その……」
「うんうん解る解る、こういう店で働くの初めてなんでしょ?」

一々同じ言葉を連呼するのが癖らしい。
店長は言いながら、パンフレットをテーブルに置いた。

「これはね、お客さんに見せる物なだけどね」
「……っ!」

ネットで散々調べていたので、見なくても何であるかは理解できる。
改めて見せられると…… ……。
ボッと顔が真っ赤になり、全身が硬直する。
今日……ようやく意を決して面接まで漕ぎ着けたのだが……自分は恐ろしい事をしようとしている…… ……。
頭に夫の顔が過ぎる。
背徳の恐怖が私を支配した。
(やっぱり……こんなの…よく……ない)
私には、やっぱり出来そうにない。
やっぱり帰ろう、そして夫に謝ろう……。

「あ、あのっ……私やっぱり!」

立ち上がった私の二の腕をいきなり掴まれた。
体格によらず、それは素早かった。

「待って待って新井さん、うちは安心だからサ!」
「いえ、でもっ」
「大丈夫大丈夫、うちはね完全予約制で信用出来ない客は取らないから。
うちの会員になるにも身分照明とか色々と調査してるんだから、ネ?。」

それも確かにネットに出ていた。
お店でお客を管理していればある程度安心かも、私もそれが理由でこのお店に決めたのは事実だ。

「それにねココだけの話だけどね、今の時間で働いてる子は全員人妻なんだよ」
「え…ぇ……ぇ?」
「貴女と同じ、何か理由があって働いてるんだよ」

抵抗していた筈の身体が、自然と力を失う。

「うちの店もソレを承知でね、安心して働いてもらう為にやってるの」
「…… ……」

店長がゆっくり立ち上がり、私の肩をポンポンと優しく叩いた。
どうしようと迷っている最中の出来事で、再び私はソファーに座らされる結果となった。
(他の働いてる人も……私と同じ…人妻……)
情報番組とかでもたまに見かけるが、まさか本当に人妻が多いとは……。

「理由は別にいいのいいの、金が欲しかったら手っ取り早く高収入がいいでしょ?」
「……」
「うちはね~本番は絶対禁止だし、女の子の希望に沿ってコースも立てられるの。
だからね~これは無理とか言ってもらえれば、そういう客は入れないからサ。」
「……そぅなの…ですか?」
「ウンウンそうそう、うちはだから安心して働ける訳よ、ウン」

どうしよう……心が動いている自分が恐ろしい。
どうしよう……困っている現状と高収入を頭の中で天秤に掛けてる。
(どうしよう……私……)

「パーっと短期間でお金貯めて、直ぐ辞めちゃえばいいんじゃない?。
それが風俗のウリだしねぇ、ねぇ新井さん。」
「パーっと……直ぐ辞めて……」
「そそ、あまり深く考える事も無いし~火遊びみたいなものじゃない」
「…… …… …… ……」

店長の言葉は、甘い誘惑のように聞こえてくる。
テーブルに置かれたパンフレットへと視線を落とした。
(私、知らない人とこんな事……を)
そう思うと決心が鈍る。

「あの……」
「はいはい、何でしょう?」
「あの…知らない人と1日どれくらい対応するのでしょうか?」
「それも女の子の自由、早くお金が欲しかったら働く時間も延ばせば良いし」
「なるほど……」

眼鏡を人差し指でクイッと上げ直して店長は畳み掛けるように言う。

「新井さんは知らない人と、フェラや素股とかするのが怖いんですねぇ?」
「……は…ぃ」

(何を当たり前の事を言い出すの?)
怖いに決まっている。

「会員制だしね、気に入ってもらえたら固定のお客が来るよ?。
それを増やせばいいんじゃないかなぁ~?。」
「でも……1人って訳にはいかないですよね……」
「まぁねぇ~空いてれば新規の客は入れますねぇ」
「ですよ…ね」
「困りましたなぁ~、うちもねぇここまで悩む方にはお引取り願ってるんですよ」

腕組しながら店長は言った。
(恥ずかしいぃぃ……)
面接に来てまで覚悟を決められない私は、さぞ滑稽に見えるだろう。

「でもね~新井さんは実にいい、清楚だし美しいし恥じらいがまた堪らない。
何とかしてあげたいなぁ~って思ってしまう。」
「……スイマセン」
「スリーサイズ、幾つ?」
「ぇ?」

いきなりだったので驚いて聞き返してしまった。

「スリーサイズ」
「あ…はぃ……あの、恥ずかしながら84・56・88……です」
「ほほぉ~~~実に魅力的な身体をしている、特にお尻が大きいのがいい」
「……」

またボッと顔面が真っ赤になる。
再び店長が尋ねる。

「ぶっちゃけね、幾らほど欲しいの?」
「……一千万位、です」
「いっせん…まん~~、そりゃまたどうしたのぉ~~?」
「ブランド物の衝動買いで…カードが焦げかけて……その…」
「なるほどねぇ~~、そりゃあ大変だ」

ある程度まとまったお金で返済しないと、もう駄目な所まで来ている。
追い詰められているのも事実だった。
だから私は、こんな如何わしい所しかないと覚悟を決めて電話をした筈だったのに……。
(どうしよう……)
と、思いつめた時だった。

「新井さんさぁ、僕と契約しない?」
「ぇ?」
「毎回違う他人とスルのが、嫌なんでしょ?。
だったら僕限定で契約しない、愛人契約を?。」
「あいじ…ん?」
「勿論、本番は無しでね」
「ど、う…いう事ですか?」

いきなりの提案に頭が回らない。
しかも愛人だなんて……。